関市議会議員 川合治義つれづれのブログpart3

毎日更新中!地域の身近な議員として市民の思いと声なき声を市政に直言。活動報告、日常生活等を記します。TIKTOK等のSNSでも情報発信。関市学校規模適正化計画(案)にも言及。富野小・中学校の消滅危機に地域最大の課題として取組みます。

農林業センサス

ちっとも進まない

 市役所都市計画課の青年職員が10日ほど前に届けてくれた「2025年農林業センサス」にインターネットで回答しようと昨日から取り組んでいます。しかし、ちっとも進まない。土曜日にもかかわらず届けて回っている職員に少しでも負担を減らしてあげたいと思って「回収に伺いますから。」というのを『インターネットで回答しますからいいい いですよ。』と言った手前何とかこのまま進めたいのですが、一問回答すると1分以上たった後で「エラー」表示。

再度ログインして同じ回答を入力してエンターするとまたまた「エラー」、偉そうに!

それでも我慢強く入力し、エンターを続けますが、

ええい、忌々しい!

今、22日の午後8時になって再び回答に挑戦したら、『メンテナンス中』ときた。

こりゃいつまでかかるか分からんなぁ。

 

今日は議会広報委員会でした。

 前回の委員会で出された意見や要望を反映した2回目の「校正」刷り(‐PC画面上)を見ながら11人の委員が、一つ一つの記事をチェックしていきます。原稿を書くのは議員ですが、それを写真や図表も入れながら構成するのは印刷会社のデザイナーです。前回の各委員の意見や要望を反映させるには相当の根気と我慢強さが要ります。中を取り持つ事務局員さんとデザイナーさんご苦労様です。

 スタッフの苦労に報いる意味でも議員としてしっかり仕事し、良い記事を提供できるようにがんばらなきゃ、と思います。印刷会社の営業マンだったころは原稿と校正刷りを携えてクライアントと自社の間を何度も、腹を立てながら、何度も往復しました。お客様の要望に応えるのが仕事なのですが、途中で内容の変更があったりすると自分の会社の職人たちにも嫌味を言われて悔しかったものです。

 

瓢ヶ岳辺りの積雪さえあまり見られません。大寒が過ぎたとはいえこれから2月の初旬は一番寒い時期のはずなのに、暖冬が死語になりつつあります。

 今日あるところでカレーうどんをすすっていたら、なんとゴキブリの子が腹を突きあげる独特な格好でテーブルの端を歩いていました。適切に処分しましたが、もう啓蟄かよ!本当に暖冬です。

 

 

 

 

おっことぬし

猪との勝負に敗退

 今の時期、伸びてきた小麦の芽を食い荒らす二ホンジカはほんのたまにしか田んぼに入っていません。学校給食に供するジビエとして二ホンジカを捕らえるよう督励されていますが、いかんせん藤谷の二ホンジカはまるで消えてしまったかのようです。

 いっぽうイノシシは道路わきや法面、田んぼのボタや畔の土を掘り起こす悪さは止んでいます。これも昨年11月以来の狩猟と禁猟期間の害獣捕獲補助員としてイノシシも捕らえてきた効果もあるかな、と思います。

 それでもイノシシは小さな洞の中では大いに食餌に精を出しており、市道に軽トラを止めて洞に入ると耕作放棄地や山裾にはエサを求めて掘り返した跡がいっぱいです。そしてその足跡の大きさからすると100kgを越えたデカい個体、オッコトヌシのようなデカい奴が徘徊しているようです。もののけ姫-乙事主から画像を拝借しました。

今年になって本気でこのデカいのに戦いを挑んでいるのですが、今朝も負けでした。

耕作放棄地に継続的に撒いてきた米ぬかの減り方が著しくなってきた昨年末からエサを増やし、侵入経路を特定しても罠をかけず好きなように食わせ続けました。今年になって水の流れをせき止めて、その中を移動して向こう側に罠を埋めると同時に米ぬかエサをストップ。せきを切って流を細くしてしばらく経った日曜日に時間をかけて慎重に米ぬかエサをワナのこちら側とあちら側に撒いておきました。

 絶対捕らえる、と皮算用していたのですが、流れのこちら側からククリ罠とつついて空弾きして、悠然とその向こうの米ぬかも盗み食いして去ったようです。

この「おっことぬし」のようなデカいイノシシは体力と知恵の塊です。行動範囲はだいたい掴んでいますが、そのどこに罠を仕掛けても掛からない。藤谷の地区外へ出張れば無警戒のイノシシや二ホンジカを捕らえられそうですが、そうなると防衛的でなくなるので実行するつもりはありません。あくまでも地元自治会の任務としてのハンターです。

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上之保温泉ほほえみの湯

 はじめて入りました。男湯は5人、女湯は6、7人だそうです。インタビューはあまりに立派な刺青のヒトが居たのでやめておきました。女湯は肥田瀬からの二人連れがいたことは分かりました。ほほえみ食堂は到着した午後7時40分には高齢男性ばかり7人がアルコールも交えた食事中でした。車は13台の岐阜ナンバーと1台の豊田ナンバー。やっぱり夜は圧倒的に地元民のようです。4月からの200円の値上げがどう響くかちょっと心配です。

7時過ぎに赤いアーチ橋=山本橋の側から温泉に行きました。温泉への坂の上り口の脇の田んぼのネットの支柱の上にフクロウが止まっていました。

 

かがやけ『関市の観光資源』

関商工高校商業科生徒のプレゼンテーション

 高校生の目で見た市内の観光資源を商業科3年生の皆さんが10時からせきテラスで

本町北・本町南・吉田観音方面・安桜山・善光寺・池尻弥勒寺・池尻円空の観光資源、 について4~6人のチームでプレゼンテーションを行いました。

採りあげられた観光資源はたいてい訪れたことがありますが、高校生の若者らしい視点でとらえた魅力には改めて関心を呼び覚まされた思いです。

中原泰男校長の初めの挨拶。

途中から「撮影許可」を得て堂々と撮影させてもらいました。

関鍛冶伝承館・安桜山チームが10代と20代の男女をターゲットにした観光を提案。

VR、AR,  MRなどの仮想空間を駆使した観光をアピールしました。先週の吉野ヶ里九州国立博物館でも経験してきたばかりなので大変共感を持ちました。若者たちには私たち大人や高齢者には理解できないような新時代の発想があります。



最後のチームは池尻の自然資源・人文資源・複合資源を外国人観光客をターゲットに見て回らせたいという提案でした。円空館での円空彫りの体験が講師の森田(下之保)さんによって継続していることも紹介されました。

今井田関市経済産業部長の高校生に対する労いと激励のあいさつ。

関商工高校のお隣にある中部学院大学です。

あのチャペルが高沢山からも本城山からもよく見えます。

華々しい成果が垂れ幕になっていました。中部学院大学は関市立図書館の指定管理者として市民の文化向上に大いに貢献して下さっています。

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古代の九州の政治の中心-大宰府周辺

「西の都」の官位

高級官僚はとてつもないご馳走が食べられたのです!

 







 

林業に光と温かさを

洪水調整機能は森林管理から

 上之保の小樽を過ぎ小和田に向かうと県道が急に狭くなります。そこまでの2車線が急に1車線の対面通行区間になります。およそ200mほどですが、地元の方たちはここを2車線化して欲しいと願っておられます。

 津保川と山の斜面に挟まれたこの道路、通行量は少ないですが、東海・東南海の震度6だと持ちこたえられないでしょう。7年前の大水害の際にはこの上流で氾濫した津保川が道路を押し流して大変不便な期間が続きました。

道路わきの崖の崩落を防ぐためのネットにつり下がったツララです。

鳥屋市地区ではここ3年ほど継続的に植林山の間伐が行われています。よく分かりませんが、多くがバイオマス発電の燃料になるのでしょうか。そうでなくとも人目に付かない箇所に使われる板に製材されるのかもしれません。ちゃんとした柱に使われるには地上5mで直径が25cmはないとダメじゃないかな、と思います。今度聞いてきます

作業用の道路を作り、森に日光がよく差すように間伐して林にして、また20年も待てば立派な柱材が収穫できるはずです。お米は一年ごとに収穫できますが、森林は植樹してから短いものでも30年から長いと5、60年かかるのです。現在のように利潤追求が性急な時代では、経済の効率だけで森林経営は成り立ちません。

津保川に落ちた枝葉を拾って、洪水でも流れない高さまで投げ上げている森林組合の作業班の方たちです。森を健全な林にして洪水を防ぐ、この森林保全は公的な事業として財政的にも保護されるべきだと常々思っています。

 

卑弥呼吉野ヶ里の女王か

 魏志倭人伝の記述は吉野ヶ里の遺跡と符合することが多数あって、卑弥呼つまり邪馬台国吉野ヶ里遺跡にあったのではないのかと思える展示が気に入りました!実は今回の48年目の新婚旅行の主たる目的はそこでした。

 恵子さんが卑弥呼さんと初対面しました。

卑弥呼の記述、

 

卑弥呼のようなシャーマンが住んだ高床式の住居に上りました。

 奥の3階建ての建物は王が重要な決定を下す際の寄り合いの場所です。2階には王や貴族の集会所、3階にはシャーマンが神のお告げを聞く祈禱所があります。

 部屋の内部です。

3年生のハッチやそれより幼い孫たちにも順次読んで欲しいと思って買ってきた、そこでしか売らないというパンフレットです。

武器庫の内部



二ホンノウサギ

久しぶりの邂逅

 午後5時から富野小学校への協力の在り方について長瀬市議のレジュメに添って会議、校長にお会いして富野地域委員会としての協力についての考え方を説明することになりました。また2月の参観日にお邪魔して富野小学校の将来について説明させてもらえないか、とお願いすることにしました。7時前に富野ふれあいセンター上空を見上げると4機の旅客機が飛んでいました。

 午後7時からは富野社会福祉協議会や地域委員会の合同会議が続き、9時前に終わって帰りました。市会議員としてどこまで口出ししてよいのか悩みますが、地域委員会に交付されている関市のお金の使い方についてはしっかり発言しました。

 

 帰り道は藤谷川沿いの農道を走りました。二ホンジカやイノシシが小麦畑に侵入していないかな、とゆっくり走っているとなんと、日本ノウサギがいらっしゃいましたよ。

ずいぶん前に親からはぐれた子ウサギを薮に放したことがありますが、それ以来の出逢いです。本気で『ウサギ、美味し彼の山~』と思っていた子供の頃は学校帰りの峠道などでしばしば見かけたものですが、ヒトが山の管理をしなくなるにつれて激減してしまいました。

クルマでゆっくり近づくと、ぎりぎりまで迫った時に駆けだし、50mほど行った橋の方に舵を切って逃げ去りました。『キツネに気を付けろよ。』

甕棺

乗り遅れて新幹線で

 朝6時34分に家を出発して40km離れた小牧空港に向かいましが、犬山に下りる41号線の長い坂で渋滞が始まり、カーナビが到着時刻を8時15分と表示しました。8時10分の出港便です。41号をそれて旧41号を走るとややスムーズでしたが、小牧市に入った所で「8時20分」と表示が出たので、助手席の恵子さんがFDAにキャンセルの電話をしました。

 帰りの便の予約は生かしたたままで、他の便を尋ねるとセントレア正午発がありましたが一人片道33000円は痛すぎます。幸いキャンセル料は一人1500円で、差額は払い戻されるようです。それならと、48年前の京都への新婚旅行以来、阪神淡路大震災の1年後に大阪へ乗ったきりの新幹線でいくことにしました。見るだけでうれしい新幹線 の、それも「のぞみ」です。30年ぶりの贅沢だからまぁいいか! 

セントレアからのFDA福岡空港に着く時刻に九州新幹線の「さくら」の自由席に。

12分で新鳥栖に到着。

 新鳥栖で降り、ホーム脇の立ち食いそば屋で「鳥の巣」を意味する鳥栖市名物の鶏肉入り蕎麦(650円)をすすりました。朝の食パン以来初めての食事です。48年前の京都行きのときにはビュッフェがあったのに、現代の「のぞみ」には車内販売さえありませんでした。それは先頭から8号車までらしく、16号車の6列目までは来なかった。

 一応腹が膨れたので元気回復、20分ほど待って長崎本線の各駅停車便で「吉野ヶ里」駅まで乗りました。下の写真は佐世保行きの特急列車です。前の8両はだいだい色で、後ろの8両は緑色でした。佐賀駅かどこかで分離して長崎に行くのでしょうか。

 ところで新幹線の止まる新鳥栖は羽島駅のように閑散としていましたが、鹿児島本線長崎本線の分岐点である鳥栖駅は人も列車も大変な賑わいでした。泊まったルートインの窓から見ると、右下の鳥栖駅舎の奥にどえらく大きいスタジアムがありました。プロサッカーチーム『サガン鳥栖』のホームグラウンドのようです。

 10時過ぎから見物するはずだった吉野ヶ里遺跡に到着したのは3時少し前でした。翌日は天気が崩れそうなので、閉園の5時までに南半分を歩き回りました。平民の住居や市場、倉庫群などを見たところで時間切れ!歩行距離は3km弱でした。

* 

翌日の正午過ぎまで北半分の見物と資料館で勉強です。

甕棺に死者を葬るという行為は万年単位のヒトの心理でしょうが、

 こんなにも大きな甕棺を3000個(人)も埋めた吉野ヶ里人の死者に対する真心が伝わってきました。

その内部の容積はかなりなものですよ。遺体の座っている下部の甕棺と蓋として使われた小さな甕棺が粘土で密封されました。

国立博物館の展示では死者は布で覆われて甕棺に安置された様子でした。もっともこの遺体は副葬品からわかるようにずいぶん位の高いヒトのようです。

この後右端の蓋に当たる瓶をかぶせてから土をかけて埋め戻します。親族の悲しみが伝わってくる人形です。

下の写真は貴族階級の墓の上に立つ見学者の足です。

罰が当たりそう。原始人?の墓なら尊厳はないのか?

広い吉野ヶ里遺跡を歩き回っていた正午過ぎ、背振山地を越えた冷気が玄海灘からの雪を運んできました。みぞれの様な雨とも雪ともつかぬものに急かされて午後1時ころに駐車場に駆け込みました。やっぱり3kmほどは歩きました。

 背振山地は雪の中に消えてしまっています。

クルマを飛ばして約1時間、太宰府市宝満山が雪化粧していました。この山のふもとに九州国立博物館太宰府天満宮がありました。

博物館は正月休みと連休明けとあってかやや見物客が少なかったと思います。

中国語を話す若い男女の一団が席巻していたと言ってもいいでしょう。修学旅行かな?

そういえば昨日福岡空港で登場を待って床に座らされていた100人余の中学生の一団がありました。『修学旅行?これからどこへ行くの?』『はい、奄美大島へ帰るところです!』そうか、島しょ部の修学旅行は飛行機が常識か!

 









 

48回目の結婚記念日

吉野ヶ里遺跡などを見物

 大学を卒業した翌年の初め、かつての成人の日が結婚の日です。どうせ結婚するのだから早くしておこう、というような感じで決め、東区の主税町というところで結婚式をしました。

 その48回目の記念日ということで、前々からぜひ行きたいと思っていた北九州の史跡を見て回る旅行に出かけました。十分堪能しましたが、今日は写真だけ。

王の臨席のもと、貴族と部族の首長たちが会議をしている様子です。市議会の本会議を思い出して笑ってしまいました。首長の妻も3人見かけました。男女共同参画社会だったわけです。神のお告げは女性が聞きました。

王の政治判断はその女性‐(卑弥呼のような)のご託宣が根拠だったのです。

貴族の遺体を詰めた甕棺は特別な地区に埋められました。

平民は雑魚寝状態。

14日の午後と15日の午前は吉野ヶ里遺跡、そのあとレンタカーで九州国立博物館へ走り閉館まで粘って見物。

中学や高校の歴史の教科書や資料集に乗せられている第一級資料を直接見られます。

「てつはう」、博多湾から引き上げられた現物も見ました。

663年百済の皇太子を押し立てて白村江に赴いた倭の軍船がコテンパンに負けたあと、反撃を恐れて大宰府の北に築いた水城が今も残っています。

今朝はその大宰府の遺跡見物から

傍らにある施設でボランティアの女性から詳しく聞けました。

菅原道真を祭った太宰府天満宮へも行きましたが、勉強どころか、飛び交う外国語に辟易としてしまいました。

帰りの飛行機は雲のじゅたんの上を飛んできましたが、伊吹山あたりから高度が下がって、見覚えのある風景が眺められました。長良川河口堰が見えています。

名古屋港のトリトン

私が免許を取った「平針の運転免許試験場」です。

画面の中央に結婚して6年ほど暮らした竹越町があります。長女はこの川の河川敷でよく遊ばせました。千種区高町大字猪子石字下竹越569だったかな。

十分充電できました。