関市議会議員 川合治義つれづれのブログpart3

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望郷の武儀神社

370年の時を経て参拝

 朝7時前、今日の四国は良い天気です。

 西暦1600年の関ヶ原の戦いの後に土佐の国に入った山内一豊について岐阜市北部の太郎丸の豪族深尾氏が従いました。その深尾氏の家来として藤谷出身の堀見氏も土佐に入りました。

 深尾氏は家老になり今の佐川町に1万石の領地を持ちました。高知城のふもとの屋敷跡は現在は「ひろめ市場」となって昼間から各種のご馳走を肴に酒の飲める盛り場になっています。cf:ウイキペディアより「ひろめ」は幕末の土佐藩家老の深尾弘人(ひろめ)蕃顕(しげあき)の屋敷があったことに基づいている。

 領地の佐川の城下町は栄え、家来の堀見氏も広い領地を持ったようで、今でも一族の元締めになる素封家の屋敷があります。白壁に囲まれた広大な屋敷です。

堀見氏は明治以降も佐川町の名士として活躍したようです。

堀見和道さんが東大出身者であるように堀見家は学者肌の方が多いようです。

右上に牧野富太郎博士の生家、

同時代の久庵さんの中央やや左下にこじんまりと。

久庵さんは朝ドラで博士の少年時代の友人として登場していたそうです。

その近くに堀見氏の氏神である武儀神社がありました。

堀見和道さんが町長時代には手を付けられなかった神社は朽ちそうになっていました。でも『400年祭』に社殿を立て直すおつもりだとか。

 畏れ多いとは思いましたが板戸の隙間から撮影したら平成13年に350年祭を行ったという証拠が写っていました。明治30年ころには250年祭も行ったと記したパネルも金文字鮮やかに掲げてありました。

 おととし堀見さん夫妻が藤谷に来て下さって以来ずっと気に掛かっていたのですが、今回の旅行で堀見家と藤谷の結びつきに確信を持ちました。柏手を打ち手を合わせてお参りしていると370年余の堀見氏の望郷の念がひしひしと伝わってくるような気がしました。

 恵子さんと連れ立っての私的な旅行でしたが、林業や観光、地域おこし協力隊の活用などについても意識的に訪問して勉強できたことも、もちろん大きな収穫でした。